新市名称選定の経緯(大内町)

更新日:2022年03月31日

名称の由来

大内町(おおちちょう)

大内

 「大内(おおち)」の名は、古い伝説によると紀元前孝霊天皇の皇女倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)(水主神社の祭神)が当地に移住され、皇女の住居を付近の人たちが「大内」と称したことに由来するといわれるが、その根拠は定かではない。しかし「大内」の名は、後に『続日本後紀』や『和名抄』・『全讃史』などの文献にも見え、大化改新(645)から「大内」の名が郡名として用いられ、明治32年(1899)大内郡と寒川郡を合わせて大川郡となるまで、実に2千年の長きにわたり愛称されてきた由緒深い名称である。
 大内町の誕生とともに、旧町村の名称は正式の行政区画の名称からは消えていったが、三本松だけは「大内町三本松○○番地」のように字の名称として残った。しかし各種団体が行事を行う場合、大内町全域を対象とするにはあまりにも広すぎる場合もあるので旧町村単位に分割して行事が行われることもある。このとき旧町村名を用いて「三本松地区」・「誉水地区」・「丹生地区」と呼んでいる。
 三本松・誉水・丹生の名称の起こりであるが、三本松の地名は古くから文献に見えるが誉水・丹生の名はそんなに古いものではなく、明治時代に名付けられたものである。
 三本松の地名の由来は、『讃州府誌』(1915発刊・梶原竹軒著)によれば「邑の東部に三本の老松あり、因ってこの地を三本松と呼ぶ。」と伝えられているが、この三本松の地名が歴史上最初に明確に記されているのは、文安2年(1445)の「兵庫北関客船帳」の中の船籍地名として記載されている。また、明和5年(1768)2月榿園増田休意によって編さんされた『三代物語』には、「三本松浦に松の大木三株あり、因って名を得たり。一都会にして富人、大賈(豪商)多く大船80艘、小船70余艘あり、もとは64艘にて3964石たりしが今は増々多し。」とある。昔から三本松千軒と称し民家軒を並べて繁昌し、松平藩のお下蔵には旧大内郡からの上納米が集積され、港には常に大小数十隻の船がつながれていて東讃第一の物産の集散地であった。(1954年発行「三本松町勢要覧」沿革の項より)
 三本松町の沿革については、この「町勢要覧」は次のように述べている。
 わが東讃の地は上古より日本民族の根拠地(大和方面)に接近せる関係上、この民族の勢力範囲であったことは疑をいれる余地はない。降って景行天皇の王子神櫛王が讃岐国造として来住(約1700年前)してから中央文化は東讃の地にも及び、孝徳天皇の大化の改新(645)により讃岐国司-大内郡司の支配下に入り小行政区画の里を郷に改められ、三本松は大内四郷中の白鳥郷八ヶ邑の一つとなった。(「和名抄」・「全讃史」による)中略
 明治4年の廃藩置県により香川県第一大区大内郡第二小区三本松と称し、同6年2月香川県を廃し名東県、徳島県に合し、同8年9月再び香川県となり、同9年愛媛県に合併され、同11年7郡区改正により第一大区を廃すると共に我が三本松邑は川東邑と合併、同21年12月愛媛県より分離して香川県となり、同23年4月村制実施に当たり、白鳥郷より分離独立し、川東邑と分かれて三本松村となり、戸長役場を廃し村役場を置いた。明治31年2月11日大内郡最初の町制を布き、同32年7月1日郡制実施に依って大川郡三本松町と称し、今日に至っている。
(昭和60年12月1日発行「大内町史」より抜粋)

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