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新市名称選定の経緯(引田町)

東かがわ市の概要合併までの経緯|新市名称選定の経緯
 
 名称の由来
 
 
引田町(ひけたちょう)
 
 引田の名の由来については、過去の4つの説がある。

・坂出鎌田共済会の岡田唯吉の持論
・『八幡宮御伝書紀』による解釈
・字義的な解釈
・猪熊信男の恩頼堂一家言説
 
  坂出鎌田共済会の岡田唯吉の持論
 大正12年3月、城山・安戸池を含む国立公園指定地の申請とともに町内有志をもって「城山保勝会」が設立され、町をあげての観光開発の運動がおこった。その際、香川県で、古代史並びに考古学研究の第一人者として著名な岡田唯吉に起稿を依頼した。同氏は当町に泊まり込みで、城山・安戸池をはじめ町内各所を詳細に調べ 歩き、その結果を「史蹟名勝天然記念物調査報告」(大正13年発刊)として発表した。
 氏はその項で「誉田八幡宮勧請以前、この宮は引田神社と唱え、孝元天皇の皇子大彦命を祭神としていた」という伝承に着目し、次のように述べている。「この地の旧家に、安倍氏、阿部氏の姓ありて引田氏の姓はなけれど地名として伝えられることなれば、孝元天皇の皇子として崇神天皇の時四道将軍の一人たる大彦命の裔孫(えいそん)阿倍氏引田氏が大和京師、北岡地方に発展しその族裔の一部が大化改新のころより奈良朝ころ迄の間において東讃の地に転住したるものにあらざるか」と。
 一 新撰姓氏録孝証 安倍氏系図
 一 太田亮著 姓氏家系辞書 引田氏
 氏は、このニ書を引用して論じている。
 
 『八幡宮御伝書紀』による解釈
 書紀には「承和8年(841)3月吉日(中略)神璽(じ)を斎(いつ)き奉り我国に帰る 急ぎ清地を求め安鎮(中略)又御宮地を改め則ち誉田の田を称え美しみて号を引田と改む 第一の若宮は八幡御宮地を賑田と号す 同若郎子(わきいらつこ)御社地を吉田と号す 亦梨木(なしき)と田夫 湖水を分ち御饌田(みけた)となす 之を佃田と号す」以下省略
 この書紀は延久三戌歳(1071)の奥書をもつ忌部(いんべ)中山氏の縁起であるが、この宮が勧請されたという承和8年から近年に至るまで、他の古文書には引田の忌部氏誉田八幡宮の字は全く見受けられない。
 初版の香川叢書には古文書の項に記述されていたが、その後の研究により、江戸中期の作というのが大方の定説となっている。だが、この書紀の中で注目したいことは、引田という地名の命名の精神である。著者は田の字に殊更のようにこだわっている。誉田・引田・賑(にぎ)田・吉田・佃田と列記したのがそれである。察するに引田郷田地耕作者の間では、古くからの伝承があり、それらを吸収し、表現したのかもしれない。ちなみに賑田は迯田、佃田は佃として現在も残っている。この佃という地名は民俗学的にも歴史学的にも、領主の自作する土地の意に解され、書紀に記述された意に似ている。
 
 字義的な解釈
 小海山系小入谷(こにゆうだに)に貝の化石が出たり、大坂山山系で貝殻がしばしば発見されたり、かつて迯田に「かな突きの鼻」とか、引田の古名が「網の浦」とかいう伝承など一連の地名が干潟を暗示しており「汐が引いた後地」のことで、引田という地名が発生した由来だとする説。
 
 猪熊信男の恩頼(おんらい)堂一家言説
 猪熊氏によると
 引田を字義通り田を引くとしては、意をなさぬ、諸国にある「ヒケタ」の地名をまず参考にしてかからなければならない。地方にあっては、曳田(ひきた)・匹田(ひきた)・辟田(へきた)などと書かれている。しかし、引田を「ヒキタ」とも読んでいるが、「ヒケタ」と「ヒキタ」では、その語源の違っている事勿論である。引田の町名は、引田部族という一つの部族から起こったものと解せられる。
 諸国にいろいろ引田という地がある。その中にもここ引田は、和名抄に出ているところの引田郷で全国的に最も大きい有力な引田部族のいた所である。「新撰姓氏録」から考えてみると、大国主神の後に、大神(オオミワ)ノ引田朝臣、三輪ノ引田君がある。それで引田ノ朝臣、引田ノ君の部族の祖先は、一応は祖神大国主神に落ちつくのである。それゆえに、佐渡国引田部ノ神社の祭神は、大巳貴神(大国主神)であるとせられる。
 ところが、この引田部ノ神社は、引田明神ともいわれ異説として、その祭神は、孝元天皇の皇子大彦命であるというのが吉田東伍博士の「大日本地名辞書」に見えている。それは、このあたりに阿部氏の子孫が多い。それで、阿倍氏等が祖先の大彦命を祭ったのだろうというのである。大彦命は崇神天皇の時、四道将軍の北陸大将軍となって行った人、また「斉明紀」に、越前国司阿倍引田ノ臣また阿倍引田の臣比羅夫なども斉明天皇のころ、越前守となっている。引田と名のつく所に阿倍氏の事あるゆえがあるのだろう。
 そこで東讃引田に八幡神がどうして鎮座せられているのであろうか。この社八幡宮であれば、之より祭神は応神天皇であるはずである。
 「大川郡誌」を読んでみると、「引田八幡宮、一説 元引田神社」といって、孝元天皇の皇子大彦命を祀ったとある。果してそうであろうか。そこまで未だ詮索を尽していないが、もしもかりに、そうであったとするなら、佐渡の国の引田部の神社の祭神説と一致する。しかしながら、一方引田部族の祖神が大国主神ということと大彦命ということについて、一致点が見出されなくなる。
 (中略)引田部族が祖神を祭ったものとすれば、考証的には祭神が、大国主神となるわけのものだが、ここにも、佐渡の引田部神社の如く、大国主神以外に、阿部氏関係があるのは、如何なるわけのものだろうか。この地に現に有力な阿倍氏ノ引田朝臣、阿倍ノ比羅夫関係によるのであろうか。
 阿倍氏阿部氏は引田の有力者で、代々相承してその家をなしてきたものと思われる。(中略)阿部という姓は、阿倍という姓より後につけられたものと思われるが、元より同族のものと思われる。とにかく、東讃の引田に、阿倍氏と阿部氏と双方あるのが、私共昔のことを調べるものにあっては誠に興趣を覚ゆる。(中略)
 世間にある阿部氏は、多く駿河の安倍郡から出ているとされているが、その安倍郡も、「古事記」「日本書紀」では阿倍であるが、「類聚国史」「後風土記」には阿弁となっている。攝津国の阿部野神社などは地名の阿倍野からきているのに、阿部野を以てしていられる。
 引田の阿倍氏も、阿部氏も共にあるいは駿河の安倍郡から出ていて、阿倍ノ朝臣、阿倍ノ比羅夫から出ているとも思われるが、引田部族との関係が明らかでない。
 ただ、陸奥地方の阿倍氏は朝廷が懐柔策として各家の姓を与えただけのもので、本来の阿倍氏とは何等の関係もなく、その子孫も本来の阿倍氏とは全く没交渉のはずである。
 
以上、4つの説を検討すれば、おのずから引田部族というのが浮かびあがり、それに関連して引田という地名が定着したとするのが、当を得ている。
(平成7年発行「引田町史 近・現代」より抜粋)